ルワンダにはタンザニアから入りました。その前はウガンダに居たんだから、ウガンダから直に入れれば何も問題なかったんだけど…。しかしルワンダ愛国戦線(Rwandan Patriotic Front)がウガンダとの国境付近でがんばってましたから。だから遠回りしてタンザニアのビクトリア湖の西岸のほとんど何も見るもののないところを走ってルワンダに入ったわけです。
首都キガリにはルワンダ2日目に寄りました。とりあえずはルワンダフランを手に入れないと、ということで銀行に行ったんやけど、最初行ったところは小さすぎて外貨を扱ってなかった。で大きなところを教えてもらって行ったら10分前に休憩に入ってしまってた。だからホテルで両替したんだけど両替両替と思って歩いてるうちに戦車が止まってるのも見かけました。銃を肩からぶら下げた軍服の若者もけっこういました。でも今から思うと不思議なんだけど、戦車や銃を持ったやつら見ても怖いとも思わなかった。戦争嫌いな平和ボケした日本人そのままだったんでしょうか。
*この旅行の資料をもらったときや旅行中もルワンダよりもブルンジのほうが危険だ、と誰もが思っておりました*
そうそうこの国から右側通行の国に入ったんだ。それでもやはり日本車が多かった。海外ではダイハツもがんばってます。それからマーケットにも行きました、キャンプの食料の買出しに付き合って。肉がねぇ露店の板の上に無造作に山積みされてましたわ。だから当然蝿もたかりたい放題。“衛生”なんて言葉は彼らには関係ないんでしょう。まぁきっちり火を入れて食べたら大丈夫なんだろうけど…。旅行者にはきつくても生まれてから食べつづけてる現地の人には。そう言えば食料品だけやなしに雑貨も売ってる大きなマーケットだったわりにはトイレもなかった。だから私もマーケットの裏で現地人に混じってタチションしました。
補足:ルワンダでは1993.10月よりHUTU(人口の85%)とWATUTSI((14%ウガンダ等出身)が内戦状態に入ったということでゴリラトレッキングをし
たN.P.を含むキガリ以北の大部分が観光客立ち入り禁止となりました。
そして内戦が収まったときフツ人を大統領に据え副大統領となり実権を握ったPAUL
KAGAMEというツチ人は、一時ウガンダに逃れウガンダのムセベニ大統領が政権を取ることを助け、ウガンダの軍隊のsecurity chiefなるNO.2(だったと思う)の地位にまで登り、あの内戦時RFP(Rwandan Patriotic
Front)がキガリ侵攻をしたときにはウガンダ国軍の支持を受けておりました。ただ私がルワンダに行ったときにはRFPはウガンダ国境付近に居て活発には動いてなかったのでよかったわけです。
そのとき南隣のブルンジはどういう状態だったかと言いますと、この国はルワンダと双子国家と言われるだけ有り、人口構成も一緒、人口密度が高いのも、農業の好きな働き者の国であることも一緒。ところが1992年諸外国の圧力により複数政党による選挙を来年やると約束させられるわけです。そして1993.6月選挙が行われNDADAYEというフツ人が大統領になるわけですが、やっぱりこういう選挙の直後と言うのはどうなるかわからない、ということで1993.7月は危険状態だったわけです。実際この大統領1993.10月に殺されます。そして大統領殺害後のドサクサで40万人の人々がルワンダに逃れたと言います。そして翌年1994.4月よりルワンダで内戦が本格化します。
話は戻って3日目の朝です。現在地はキブ湖沿いのTAM TAM CAMPSITEです。
なんと朝5時起床じゃなくて出発。こういうときはいつもトラックの中でパンとかビスケットかじって朝飯代わりにしてました。で、どこにそんな朝早くに行ったかと言うと、RUHENGERIからPARK NATIONAL DES VOLCANSへゴリラトレッキングに行ったわけ。
トレッキングのベースキャンプから山の入り口まで村の若者連中が荷物を持たしてくれと言うて付きまとってきた。まぁ荷物なんてほとんどないから断りつづけたけど。銃を持ったガイドが付いて10人のグループでトレッキング。ただひたすらゴリラを求めて歩きました。しかしグループでのトレッキングというのは私にはあわなかったですね。自分のペースで歩けないからイライラしてくる。しかもなんといっても朝起きた時間が・・・。途中あたまの中をふっと何かが通りすぎて行き倒れそうになったことも。陽射しもきつかったしね。草や木もそこそこあったんだけど、でも陽射しを直接浴びてることが多かった。これがゴリラの大好きな実だ、これが糞だ、などと教えてもらいながらただひたすら歩くこと約3時間。ついにゴリラを発見!!!
本当に大きな群れだった
大人から子供までいーーっぱい
なんか顔に愛嬌があるというか怖い気は全然しなかったね。
トレッキングで見せてくれるのは人馴れさせてあるゴリラだから、たぶん彼らの群れにとっては日常よくあることだったんでしょう。人間なんか無視して行動してるように見えました。
逆に人間は興奮してました。
俺も本当にうれしかったというかなんというか座ってただじっと見とれてました。
特に子供のゴリラなんかは手を伸ばせば充分届くところまで来てくれるし。
木を軽々と登ったりその辺走りまわったり。
大人のゴリラはじっと座りこんで毛繕いしてた。
ゴリラと目が合ってしまっても何ともなかったし。
出発前にガイドからいろいろと注意受けたんやけど・・・。
カメラのフラッシュはたくな(だからコンパクトカメラのフラッシュにはガムテープ貼って行った)。
フイルムを自動で巻き上げる音も駄目。
目線を絶対合わせないように、合うと襲われる、などなど。
でも人間がただ異質なものに出会って神経質になってるだけだった気がする。
ゴリラのほうが懐深く人間様を包み込んでいたような・・・。
でもゴリラを見ると疲れも吹き飛んじゃいました。
帰りは尾根伝いに帰ったんだけど尾根を一つ間違えて遠回りになったんだけど、そんなことまるで気になりませんでした。
帰りトラックを待つ間に飲んだビールのおいしかったこと。そしてまたキャンプサイトまで帰り寝たのでした。
さて次の日は私達はキブ湖沿いのギセニのキャンプサイトでのんびりと過ごしました。そもそもゴリラトレッキングというのは大人数では行けないので、私達20人は2グループに分かれて行きました。ということで今日は昨日行かなかった人が行ったので昨日行った私はお留守番。湖に入って遊んでるやつらもいたけど私は近所を散策しにぶらぶら歩き出しました。地球の歩き方に書いてある場所に民芸品や(ザイールのお面等)が有ったんだけど、なんて誇張して書いてあるんだろう、と驚きました。それほど実物はちゃっちかった。でも種類はいろいろあって楽しめたけど。
*この頃はまだ“地球の歩き方14東アフリカ”にはルワンダやブルンジも載ってました。たしか96-97版から消えたのかな?*
でHOTEL IZUBA-MERIDIEN(こんなややこしい名前だったんだ、どう発音するんでしょう???)で昼飯。アイスクリームがおいしかった。ホント幸せな気分になりました。結局お面もそのホテルの近くで買ったんだけど、そのあとまた街を歩いてるとお面を売りつけに来たやつがいた。1000から値切らせて行って600まで落ちたら突然腕にそこらへんに有った枯れ枝で値段書き始めよった。しかも600まで自分で落としておいて800なんて書くから、おまえが600て言うたやろ、と言うと、それで買うんか、て言うから、NO,と言うと、おまえいったいいくらで買う気なんや?と聞くから、300と答えると、首を振りながら背中に哀愁を漂わせて去って行きよった。
でキャンプに戻って、さあ湖に入ろう!と思ったら太陽がない。意地で少し入ったんやけどね、でも寒くて波と遊ぶとかいう気にはなれずにすぐに退却しました。だからやることがなくなってしまって昼寝を少し。その後再び町を歩きに行ったらデリック(仲間のオーストラリア人)に会って一緒にブラブラ。
そしたら、ザイールで教師をやってたんだけどモブツ(当時の独裁者)が軍と金を握ってるからなにもできずに逃げてきた、という男に会った。けっこうそういう人は多かったらしい。そいつの話によると、ザイールとの国境は山一つ越えたらすぐということだった。その当時はああそうなんだ、と思ってただけだけど、そのすぐ近くのザイールの町が、翌年日本のテレビにすら頻繁に名前の出てきたゴマ。この当時は逆にザイールからルワンダに流れてきてたんです。そして以前も書いたようにルワンダからウガンダへ流れて行く(ザイール人がウガンダまで行くわけじゃないです、ねんのため)。ところがルワンダ内戦が始まるとウガンダからRFPがやって来てルワンダから難民がザイールへ。
さて話は戻ってそれから郵便局行ったんよ、デリックが手紙を出すということで。ところがウガンダの切手残ってたらしく、それで出せるか聞いたら、駄目、とあっさり言われてしまってました。まぁそれはそうでしょう。しかしブロック作りの綺麗な建物が多かった。キオスクはここでもジュースにトイレットペーパー、たわし、日用品はなんでもござれだった。
そういえば3輪車も見たな、手漕ぎの。当時は何も知らないから珍しいものがあるもんだ、と思っただけだけど、今から思うとあれは足の不自由な人用だったんでしょう。考えてみたら車椅子よりずっと実用的な気がしないでもない。
5日目に再びキガリに少しショッピングのために停まっただけだったんだけど、スワヒリ語圏のはずなんだけどスワヒリ語の出版物はまるでなかった。このときはスワヒリ語まだ全然できんかったしタンザニアに行く前に少し勉強しようかな、と思ったんだけど。しかもベルギーの植民地だったからフランス語の本ばっかり。
NATIONAL LANGUAGEはKINYARWANDAでOFFICIAL LANGUAGEはフランス語もです。
キガリを出てからは何度も検問に引っかかりましたね。なんというのか知らんけど、停まらんかったらパンクさしてやるぞ!!!と悪意に満ちた長い鉄釘のさしてある板が有ると停まらんと仕方がない。そうするとポリスが入ってきてパスポートチェックやらして行った。でもうちら20人くらい居るからか、何かくれとは全然言われんかったね。そういう不必要に物乞いしない国民性だとすごいんだけど、どうなのかは不明です。
この当時のガイドブックには“アフリカのスイス”だとか“段段畑の有る働き者の国”だとかいいイメージのことばっか書いてありました(もちろんガイドブックに悪いイメージのこと書くわけも有りませんが)。ホントこの頃は人口密度もアフリカの中で高いほうだったらしいけど緑はいっぱい残ってるいい国というイメージでした。今はもう見渡す限り赤茶けた大地だそうな。内戦の傷跡と言うことなんでしょうけど…。
途中南部最大の町ブタレでショッピング。さすがにキガリと比べると規模はぐんと小さくなるけど、食料品はほんとに少ししかなかったのに古着はもういっぱい有った。しかも子供用か10代くらい向きの服が。大人用の服はそんなになかった。私も少し小さいかな、と思いながら長袖一枚買いました。
しかしトラックが止まると、後ろに白人でもがあんなに座ってるトラック珍しいんやろ。すぐに人だかりができてしまう。押し売りがやってくる。今日はイロイロといい御土産になりそうなもの持って来てくれたね。お金も余ってたし小さなドラムを買いました。そしたらその後すぐにもっといいのが来た。針金で作ったバイク。これはホントに良かった。この後タンザニアやマラウイでも見たんだけどここで見たのが一番良かった。でも既にお金残ってなかった。ドラムを買ってなければ・・・。